【小さな英雄たちの物語④】共に動けば、壁は低くなる――鄭炳熏さん・久保麗子さん
—— 二十歳で自分の名前を取り戻した鄭炳熏(チョン・ビョンフン)と、「友人のことを何も知らなかった」と振り返る日本人・久保麗子。二人が共に歩んだ三十余年
久保麗子さんの出発点 ——「実は私、朝鮮人なの」
高校時代のある日、久保麗子さんは親しい友人から思いがけない言葉を聞いた。
久保さんは何と答えればいいのか分からなかった。在日コリアンとはどんな人たちなのか、なぜ日本で暮らしているのか、どんな歴史を歩んできたのか、ほとんど知らなかった。学校で習った記憶もなかった。
2026年の夏、大阪のあるカフェで会った久保さんは、当時の自分をこう振り返った。
今思えば、自分でも気づかないうちに、いかにも「日本人らしい反応」をしてしまったのだと思う、と言う。勇気を出して打ち明けた友人の側には、おそらく「私の日本人の友だちは、本当に何も知らないんだな」という苦さが残ったはずだと、久保さんは語った。
一緒に笑い、語り合いながら青春の一時期を過ごした二人だった。しかし友人はその後、朝鮮大学校へ進み、久保さんは美術の道へ進んだ。互いの背景を十分に理解できないまま、そして理解されないまま、二人はそれぞれの道へと離れていった。
それでも、友人が言いにくそうに口にしたあの一言は久保さんの心に残った。そして、一つの問いを残した。
私はなぜ知らなかったのだろう。
同じ地域で、同じ学校で、一緒に笑い、話していたのに。なぜ友人の人生を、その家族の歴史を知らなかったのだろう。
その問いは、簡単には消えなかった。
やがてその問いが、久保さんを在日コリアンが多く暮らす大阪・生野へと導いた。
鄭炳熏さんの出発点 —— 日本の「名前」から始まった問い
鄭炳熏さんは1951年、大阪・生野のごく普通の家庭に生まれた。全羅南道・順天から来た父と、忠清南道・扶余から渡ってきた母は、あの時代に日本へ来た他の在日コリアンたちと同じように、苦労に苦労を重ねて二人の子を育てた。
子どもだけは差別されず、からかわれず、親のように汗を流し、悔しい思いをすることがないように —— その願いは、日本人の親であれ在日コリアンの親であれ変わらなかっただろう。鄭さんの両親も、息子がこれから日本で生きていくのなら日本の学校に通うほうが少しでも楽だろうと考えた。こうして彼は日本の学校に通い、日本名を名乗って育った。
二十歳になった鄭さんは、その日本名を手放した。周囲は、これからも日本で暮らしていくのに、わざわざ本名を使う必要があるのかと止めた。それでも彼は、本名を取り戻す道を選んだ。
本名を取り戻したからといって、世界が一夜にしてひっくり返ったわけではない。ただ、彼の人生はゆっくりと、そして着実に向きを変えていった。生野の印刷会社で十年以上働いた彼は、貯めたお金で約一年かけて日本各地を回り、その後、韓国に語学留学し世界のあちこちを旅した。二十歳で取り戻した名前で歩き出した道だった。
一歩一歩、世界を見て回った彼は日本に戻り、障害のある子どもたちの学童保育所など、さまざまな現場で働くことになる。
鄭さんは、その道のりを偉人伝に出てくるような大げさな使命感では説明しない。
人に出会い、人から紹介され、必要とされる場所に行って手伝ううちに、人生が自然とボランティアの現場へと流れていったのだという。
一人は、自分が在日コリアンについてあまりに知らなかったという自覚から。もう一人は、自分の名前を取り戻した場所から。それぞれ違う方向を見て生きていた二人が、大阪・生野で出会うことになる。

出会い —— 絵画教室と後片づけから始まった縁
生野に足を踏み入れたからといって、久保さんが最初から何をすべきか分かっていたわけではない。在日コリアンについてもっと知りたかったが、どう関わっていけばいいのかは分からなかった。
一歩、また一歩。美術を学んだ彼女は、まちの展示活動を手伝い、子どもたちと絵を描く教室を開きながら、少しずつ人との関係をつくっていった。
偶然は、どうやって縁になるのだろう。
展示や絵画教室の準備と後片づけには、多くのボランティアが手を貸してくれた。その中に鄭炳熏さんもいた。
行事が終わると、集まっていた人たちは一人、また一人と帰っていく。それでも最後まで片づけを続け、きちんと締めくくるのは、この二人だった。そうして後片づけが終わり、二人だけが残った日には、一緒にご飯を食べた。
一人は在日コリアン。
一人は日本人。
しかし二人を最初に結びつけたのは、植民地の歴史をめぐる議論でも、民族や国籍をめぐる論争でもなかった。共に何かをする、ということだった。
ボランティア仲間から夫婦へ
インタビューの途中、いつからお互いを特別に意識し始めたのかと、冗談まじりに尋ねてみた。返ってきたのは野犬の話だった。
若いころ、二人は五、六匹の野犬に囲まれたことがある。危険な瞬間、鄭さんは男として久保さんを守らなければ、という思いが自然に湧いたと振り返った。
もちろん、その出来事一つで二人の結婚を説明できるわけではない。ボランティアの現場で共に時間を過ごし、互いを知っていき、思いがけない瞬間に相手を案じる —— そんな経験が積み重なった。そうして二人は、いつの間にかボランティア仲間以上の間柄になっていた。
そして、夫婦になった。
在日コリアンの家族として生きる —— 姑と嫁のあいだの壁
1999年のKBSの放送には、当時のコリアボランティア協会の活動とともに、鄭炳熏・久保麗子夫妻の話も登場する。
コリアンの家庭で長男の持つ意味は大きい。八歳で日本に渡り、差別と疎外のなかで大切に育ててきた息子が日本名を捨て、安定して勤めていた職場まで辞めて、ほとんど無報酬に近いボランティア活動に打ち込む —— そう聞かされた母の心が穏やかであるはずがなかった。そのうえ、嫁は日本人だった。
ところが歳月が流れたのち、KBSのカメラの前で母が久保さんについて口にした言葉は、意外なほど飾り気のないものだった。
この言葉が特別なのは、最初から違いがなかったからではない。一緒にご飯を食べ、同じ家族を案じ、長い時間を共に生きるなかで、「在日コリアンの姑」「日本人の嫁」という呼び名よりも、人と人との関係のほうが大きくなったからだろう。
放送には、少し胸の痛む場面も映っている。夜中に障害のある人が助けを求めれば何をおいても駆けつける鄭さんが、肝心の自分の母を訪ねる時間までは取れなかった。結局、母のほうが遠い道のりをやって来た。息子夫婦が一晩泊まっていってほしいと引き止めたが、母は再び一時間以上電車に揺られて家へ帰っていく。
鄭炳熏さんは、母の後ろ姿を見つめる。
人を助ける生き方も、完璧ではない。誰かのために多くを差し出しているあいだに、いちばん近い人への申し訳なさが残ることもある。
もう一つの転機 —— 1995年1月17日、午前5時46分
二人の人生に、もう一つの決定的な出来事が訪れた。1995年の阪神・淡路大震災である。
当時、二人は西宮の古いマンションに住んでいた。
午前5時46分。激しい衝撃とともに建物が崩れた。下の階では命を落とした人もいた。
三十余年が過ぎた今も、鄭さんはあの瞬間を忘れられずにいる。
二人もまた被災者だった。それでもすぐに神戸市長田区の救援の現場に入った。韓国系や朝鮮系、日本人、ベトナム系の住民たちが共に暮らす地域だった。普段であれば、人を分ける呼び名がいくつもあった。
韓国人、朝鮮人。日本人。外国人。
しかし、家を失い、食べるものもない人たちを前にしては、その区分より先にやるべきことがあった。
ご飯を炊かなければならなかった。
大きな釜を積んで避難所へ向かった。人々と一緒に食べ物をつくった。国籍を問うことなく、必要とする人に手渡した。
鄭さんは、その経験をこう表現した。
考えが同じになるのを待ってから共に動いたのではない。先に、共に動いた。そして共に動いているあいだに、それまで見えていなかった相手の人生が見えはじめた。


違いを抱えた地域 ——「民族、国境、ハンディを超えて」
二人の活動の原点は、さらにさかのぼる。「モヨラ」の前身にあたるコリアボランティア協会は1994年、康秀峰(カン・スボン)さん、鄭炳熏さん、久保さんをはじめとする大阪のボランティアや市民活動家たちが一緒に立ち上げた。日本でも朝鮮半島でも、「ボランティア」という言葉そのものが、まだ耳慣れない時代だった。
協会が掲げたスローガンは「民族、国境、ハンディを超えて」だった。
中心となって動いた康秀峰さんは朝鮮籍で、総連系の背景を持っていた。鄭炳熏さんは韓国籍だった。そこに久保さんをはじめとする多くの日本人ボランティアが集まった。1999年のKBS取材当時、登録者は約5千人。そのうち約7割が日本人だったという。
ボランティアは、まちのなかで誰かが何を必要としているかに気づくところから始まる。韓国語には、そうした人と人との温かさを指す「情(チョン)」という言葉がある。
ハングル教室では、鄭さんが日本人にハングルを教えていた。長く入院して家族の足が遠のいた在日コリアンの障害者のもとへ、久保さんは弁当を持って通い、話し相手になった。別のボランティアは、一人暮らしの障害者の食事や入浴を手伝った。電動車椅子のバッテリーが切れて夜道で動けなくなった人が連絡すれば、近くのボランティアが駆けつけた。そうして助けられていた人が、今度は自分にできるやり方でモヨラを支えるボランティアになった。地震が起きればみなで力を合わせて被災した家族のもとを訪ね、高齢者施設のお年寄りのためにクリスマスパーティーを準備したりもした。
ボランティアをしながら、あなたはどの国籍で、どんな考えを持っているのかと、いちいち問いただすことはなかった。共に流した汗に、レッテルを貼ることもなかった。
一つの部屋で一緒に笑うとき、どう笑うべきかを決めた人もいなかった。それぞれが自分のやり方で大きく笑った。
社会も大きく揺れ動いていた時代だった。共に笑い、ボランティアをしたからといって、政治的な違いが消えたわけではない。それぞれの歴史と背景を捨てたわけでもない。違いを抱えたままでも共に笑い、誰かのために動くことができる —— それが壁を低くする道であることを、彼らはわざわざ口にしなくても分かっていたのではないだろうか。
実際、多くの研究でも、他者を助ける行動は幸福感や人生の満足度と正の関連を持つことが示されている。とりわけ、自らの意思で参加し、助ける側と助けられる側のあいだに関係が生まれ、自分の行動が実際に役立ったと実感できるとき、そうした好影響がより現れやすいと報告されている。¹


歳月が流れても受け継がれる精神 —— 制度が埋めきれない関係の空白
歳月が流れた。
コリアボランティア協会の公式な活動は2023年に幕を下ろした。共に活動してきたボランティアたちも年を重ねた。それでも、彼らがつくってきた関係まで終わったわけではない。今は「モヨラ」という活動を通して、在日コリアンの高齢者たちとの関係が続いている。
施設を訪ね、散歩や外出を手伝い、一緒に歌をうたい、レクリエーションをする。夜間中学の学習支援も行う。今その場には、学校教育を十分に受けられなかった在日コリアン一世・二世だけでなく、中国などから来たニューカマーもいる。授業についていくのが難しい人がいれば、ボランティアが隣に座ってもう一度説明する。
活動の内容だけを見れば、一見すると、特別なことには見えないかもしれない。しかし二人が語るボランティアの力は、まさにこうした小さな日常のなかにある。
久保さんは、専門的な福祉サービスとボランティアを混同しない。公的な福祉サービスのヘルパーには決められた時間と、こなすべき業務がある。そうした制度は不可欠だ。一方、ボランティアが生み出すのは、制度とは少し異なる関係である。
誰かの隣に座る。一緒に散歩する。何度でも同じ話を聞く。
その人の若いころの話を聞き、好きな食べ物や歌を知るようになる。そうしているうちに、いつの間にか「サービスを提供する人」と「サービスを受ける人」ではなく、互いにとって特別な人になる。
だからこのボランティアは、効率的ではないかもしれない。長いあいだ一人の高齢者と関係を結んできたボランティアが体調を崩したからといって、翌日に別の人を送って「今日からこの人が担当です」と言うわけにはいかない。
関係は、サービスのように代わりがきくものではない。
これがボランティアの力であり、同時にいちばん大きな難しさでもある。現在モヨラには約20人が登録しているが、日常的に動ける人は10人ほど、中心となって活動する人はそれより少ない。鄭炳熏さんと久保さんも年を重ねている。
いま二人が向き合っているのは、新たな問いである。
誰がこの関係を次の世代へつないでいくのか。
鄭炳熏さんが伝える言葉 —— 共に動くとき、関係が始まる
政治やイデオロギーを前面に立てて向かい合えば、人はぶつかる。しかし誰かを助けるという営みの前では、考えの違う人でも同じ方向に体を動かすことができる。長くボランティアを続けてきた鄭さんは、それを体で知っているようだった。
いま誰が困っているのか。自分に何ができるのか。一緒にできることは何か。
その問いの前で、人は同じ方向へ動きはじめる。共に動くなかで、互いを知る経験が一つずつ積み重なっていく。その積み重ねが理解となり、記憶となり、やがて関係になっていく。
鄭さんは、何でもないことのように見える「一緒に歌をうたうこと」について話した。
希望は体を動かしながらつくるものだと、彼は言った。
久保さんが伝える言葉 ——「知ることで、初めて選ぶことができる」
インタビューのあいだ、久保さんは夫の話を静かに聞いていた。しかし、自分の信条について語るときには、控えめながらも、言葉ははっきりしていた。
知ることで、初めて選ぶことができる、ということ。
日本と朝鮮半島のあいだにどんな歴史があったのか。在日コリアンがなぜ日本に住むようになったのか。差別を経験した人がどんな思いで生きてきたのか。
しかし、歴史を学ぶことが誰かを非難するところで終わってはならない、と久保さんは言う。歴史のなかには差別し、目を背けることを選んだ人もいたが、困っている隣人に手を差し伸べ、体を動かした人もいた。
だとすれば、大切な問いはその次にあるだろう。
私たちはこの時代に、何を選ぶのか。
久保さんは、日本社会でも在日コリアンや朝鮮半島について限られた情報だけに触れたまま相手を判断してしまうことがあると感じている、と話した。自分自身も、かつてはすぐ隣にあった現実を知らなかった一人だった。
だから、本から学ぶのと同じくらい、人に直接会う経験が大切だと言う。
現場に行ってみること。
人の話を聞くこと。
そして、できることなら一緒に何かをやってみること。
その過程で、一人の在日コリアンの青年はボランティア仲間になり、友人になり、生涯の伴侶になった。在日コリアンの高齢者たちは、いつしか「助けを受けなければならない人」ではなく、自らの人生と歴史を教えてくれる人になった。生野は「在日コリアンが多く住む場所」から、久保さん自身の人生の一部になった。
「韓国人」「朝鮮人」「日本人」という呼び名の向こうに、一人ひとりの顔が見えはじめたのだ。

次の世代に残された問い
コリアボランティア協会が掲げたスローガンは「民族、国境、ハンディを超えて」だった。
鄭炳熏さんと久保麗子さんの三十余年を振り返ると、背景の異なる二人を結びつけたのは、はじめから同じ考えや同じ歴史観だったのではない。誰かの困難から目を背けず、共に助ける心と行動だった。
人は国籍も、民族も、歩んできた歴史も違う。それでも、病に苦しむ人を案じ、孤独な人のそばに座り、困っている人に手を差し伸べる心には、私たちが共に分かち合える普遍的な価値がある。それを愛と呼ぶこともできるし、思いやりや連帯、「情(チョン)」と呼ぶこともできるだろう。
大切なのは、その心がボランティアという行動に移されるとき、人を隔てていた壁が少しずつ低くなるということだ。
共に動けば、出会いが生まれる。
出会えば、相手を知る。
知ることから、理解が始まる。
平和とは、もしかすると大きなスローガンよりも先に、自分とは違う人を一人の人間として見つめ、その人のために小さな行動を始めるところから生まれるのかもしれない。
いま、その問いは次の世代に残されている。
私たちは互いの違いを、壁として残しておくのか。
それとも、共にできることを見つけ、その壁を少しずつ低くしていくのか。
私たちが夢見るコリアン・ドリームの未来は、まさにその小さな選択から始まるのではないだろうか。
この文章を書いている私自身もまた、その問いの前に立っている。


