【小さな英雄たちの物語シリーズ③】「また来ますね」水尻福子さん|在日コリアン一世の最期まで寄り添い続けた日本人女性の26年
見えなかった人たちが、見えるようになった日
1990年代後半、埼玉県西川口。
水尻福子さんは友人と一緒に、
コンサートチケットの案内のためにその一帯を訪ね歩いていました。
古びた木造アパートが並ぶ路地。
ある玄関先でインターホンを押すと、奥からしわがれた声が返ってきました。
ドアが開きました。白髪の痩せた老人が立っていました。
二人が短く言葉を交わしていたその瞬間、一緒にいた友人が突然倒れてしまいました。
慌てた水尻さんは、その場で助けを借りながら友人を介抱することになりました。
老人の名前は文明律。
その思いがけない出会いの中で、彼女は初めて在日コリアン一世の
ハラボジ(韓国語でおじいさんの意)の暮らしの一端に触れることになりました。
それまで彼女は、在日コリアン一世の方々がどのような暮らしをしているか、あまり知りませんでした。
狭く薄暗い部屋、一人で過ごす長い時間、誰も訪ねて来ない一日。その扉が開いた後、彼女の心の中でも何かが開きました。
「こういう方が、他にもいるのではないか。」
それが始まりでした。
1999年、彼女は「在日同胞ハラボジ・ハルモニを支援する会」を東京・渋谷で立ち上げました。
その活動の道のりで出会った一人ひとりが、
水尻さんにとって忘れられない人生の先生でした。
これから紹介するのは、そんなハラボジ・ハルモニたちとの物語です。
※ ハラボジ・ハルモニとは、韓国語でおじいさん・おばあさんを意味する言葉です。
本記事では、在日コリアン一世の高齢者の方々への親しみを込めて使用しています。
目を閉じて「川の流れのように」を聴いていたおじいさん

後藤竹雄おじいさんは、
食堂に行けば大きな声で「まずい!」と叫んで水尻さんを困らせる、
荒削りだけれどどこか憎めない人でした。
太平洋戦争中に京城(キョンギ・ソウルの都市)から徴用されて
フィリピンの捕虜収容所の監視任務に就いた彼は、
戦後の軍事裁判で有罪判決を受け、長年にわたり収監されました。
釈放後も日本政府に対して名誉回復のための裁判を続けましたが、
最終的には認められなかった――そんな切ない事情を抱えたおじいさんでした。
ふだんは荒っぽいふるまいで周りを困らせていたおじいさんにも、
愛してやまないものがありました。
愛する息子、ひとつの歌、そしてパチンコです。
水尻さんは今でも、おじいさんをこう振り返ります。
「息子さんのことを話すとき、おじいさんの顔が変わりました。」
そしてカラオケで美空ひばりの「川の流れのように」が流れると、いつも静かになりました。
目を閉じてじっと座り、曲が終わるまで微動だにしませんでした。
その静けさの裏には、どれほど深い思いと恨(ハン)が込められていたのでしょうか。
それでもおじいさんはいつもユーモアにあふれていました。
朝鮮総連のテレビ局が出演料を提示した際には頑なに断ったのに、
パチンコ好きのおじいさんに「パチンコ代ですから」と差し出された一言で、
瞬く間にその出演料をポケットにしまい込んだという逸話は、
水尻さんが今でも笑いながら話すエピソードです。
結局、名誉を回復することのないままこの世を去ったおじいさん。
水尻さんは、静かに棺に横たわるおじいさんの前で、しばらく言葉を失いました。
温かいタオルで拭った痛み

岩城おじいさんと初めて会ったのは、
埼玉県越谷市(こしがやし)の小さな病院でした。
樺太に徴用され、敗戦後も帰国できずにいたところを、
日本人女性と結婚したことでようやく帰国できました。
その後も苦しい日々を過ごし、
一人で病院に入ってからすでに6年以上が経っていました。
初めて訪れたその日、水尻さんはおじいさんの足が目に入りました。
やけどの跡のようにまだらな肌の色。
急いで温かいタオルを持ってきて拭き始めると、
白くきれいな肌が現れました。
無口で無骨だったおじいさんは、
水尻さんが繰り返し病院を訪れる中で、
少しずつ表情が和らいでいきました。
ささやかでも真心を込めて手渡す小遣いや衣類も
受け取ってくれるようになり、目に力が戻ってきました。
その冬、大雪の降った日に病院から連絡が来ました。
水尻さんはスタッフと一緒に病院へ駆けつけました。
霊安室の廊下で二人はしばらくの間、声を上げて泣き続けました。
そして身寄りのないおじいさんの火葬の手続きのために奔走し、
お寺を探して遺骨を安置しました。
それ以来毎年、おじいさんのために供養を続けています。
「責任を持ってお葬式しますから、心配しないでください」

葛飾区のクォン(権)おじいさんは、
樺太から帰国後に一人で息子を育てた方でした。
息子が成長して感謝の気持ちを込めてまとまったお金を手渡し、
「故郷でゆっくり過ごしてください」と言ったのですが、
おじいさんは結局日本に戻ってきました。
長い年月が流れ、故郷にはもう自分の居場所がなかったからです。
水尻さんは毎月果物と少しのお小遣いを持って彼を訪ねました。
ちょっと顔を見て、「またきますね」と言って帰るだけ。
それだけで、おじいさんは待っていました。
持病が悪化したある日、水尻さんは直感的に病院へ向かいました。
おじいさんは目を閉じられないまま、彼女を待っていました。
水尻さんは手を握り、おじいさんの耳元に顔を近づけて、小さくささやくように言いました。
「私が責任を持ってお葬式を出しますから、心配しないでください。」
おじいさんは大きく一息ついて、そのまま目を閉じました。
民団の事務所を借りて、質素ながらも丁重なお葬式を執り行いました。
遺影の中のおじいさんの顔は、泣いているように見えたといいます。
いつも5,000円を握らせてくれたおばあさんが恋しい

中野区で一人暮らしをしていた金井豊子オンマは、
在日コリアン2世でした。
夫と長年焼き肉店を経営していましたが、
夫に先立たれ、子どももいませんでした。
年を重ね、足の痛みで歩くのも辛い状態でしたが、
水尻さんが訪ねると、いつも明るく迎えてくれて、
必ず5,000円を手に握らせてくれました。
「オンマは私を子どものようにかわいがってくれました。」
深い話をする間柄ではありませんでしたが、
その温かく親しみやすい雰囲気は、
水尻さんにとってそれ自体が慰めでした。
安否確認の電話もよくかけていました。
そんなある日、電話がつながらなくなりました。
「ある日ふと連絡が取れなくなったとき、一人で逝ってしまったんだなと思いました。ただただ思いがあふれてきました。」
差別の壁を越えて、春を迎えたかったおばあさんたち

東京郊外のハンセン病療養所の一角には、
かつて在日コリアンの高齢者だけを集めて強制入所させた小さな区画がありました。
病名一つで家族から引き離され、
偏見と差別の中で長い年月を過ごした方々がそこで暮らしていました。
水尻さんはマッサージのボランティアチームを作り、
毎月その場所を訪れました。
広い畳の講堂でのマッサージを、
おばあさんたちは一ヶ月ずっと楽しみに待っていました。
ある日、一人のおばあさんが幼い頃のことを話してくれました。
家族が日本に来たとき住む家がなく、
屋根があるだけの古い鶏小屋を借りて最初の住居としたそうです。
雨の日は古い、すえた匂いが立ちのぼって鼻をついたけれど、
家族が一緒にいました。
そうして始まった日本での生活。
その後ハンセン病を患い、何十年もの間、差別と隔離の日々を一人で耐えてきました。
水尻さんはその話を、そして他のおばあさんたちの話も聞きながら、
長いあいだ心が重かったといいます。
言葉では到底表せない人生がそこにありました。
だからこそ、もっと会いに行きたいと思いました。
一緒に温かい春を迎えたいと思ったのです。
水尻さんが抱いた夢の種

水尻さんは自伝の中でこう書いています。
在日同胞の皆さんは、苦しみの多い人生の中でも、
人を恨まずに生きてきました。差別と偏見の中でもひたむきに歩んできました。
日本人である私を憎むどころか、娘のように愛してくれました。
そして、皆さんが朝鮮半島の平和統一を心から願っていました。
彼女がこの活動を続けてきた理由は、
単なる同情ではありませんでした。
在日コリアン一世の方々の一人ひとりが歴史の生き証人であり、
朝鮮半島の分断と離散の痛みを体をもって生き抜いてきた人たちだということを、
間近で見てきたからです。
その命の記憶が消えてしまう前に、
その手を握りしめなければと思っていました。
私の歩みが在日同胞の皆さんを慰めることができるなら。
そしていつかコリアが一つになる日のための、小さな種になれるなら。
考えの違いはあっても、心の壁なく一緒に笑った場所
彼女が作った場には決まりごとはありませんでした。
民団か総連かは問いませんでした。
政治の話もしませんでした。
ただ一緒にご飯を食べて、花見に行って、
カラオケで歌を歌いました。
苦労の多い日本での生活の中で青春というものを
一度も味わえなかった方々に、
遅ればせながら青春のきらめくような時間を贈りたかったのです。
誰かが自分を待っていてくれること。
名前を呼んでくれること。
具合が悪ければ会いに来てくれること。
最期の道のそばにいてくれること。
それが水尻さんにできる全てであり、それで十分でした。
コリアンドリームが目指す韓民族の平和共同体は、
宣言文から始まるのではありません。
一人の孤独から目を背けないところから、
イデオロギーを超えて一人のおじいさんとして、
一人のおばあさんとして出会う場から始まります。
奉仕が信頼を生み、信頼が和解の土台となり、
その和解がやがて分断を越える力になります。
水尻さんの26年は、そのことを静かに証明しています。
次の世代に残したい想い
在日コリアン一世の方々は、今ではとても少なくなりました。
その方々が直接語ってくださる話を聞ける時間は、急速に失われています。
水尻さんが歩んできた道を見つめながら、
在日コリアンである私たち自身を振り返ります。
私は身近にいる孤独な人を見ているだろうか?
歴史の痛みを他人事として見ていないだろうか?
私は誰かに、家族のような存在になれるだろうか?
小さな英雄は華やかな舞台には立ちません。
さびしい病室に、誰も訪れない古びた部屋に、
温かいタオル一枚を持って立っています。
そして言います。
またきますね。

水尻福子さんの自伝『在日一世と私の身世打鈴 ―愛は恩讐を超えて―』は「在日同胞ハラボジ・ハルモニを支援する会」より発行されています。
収益は朝鮮学校への鉛筆支援に使われます。
連絡先:080-9269-0007 / 書籍価格:1,000円
振込口座:郵便局「在日同胞ハラボジ・ハルモニを支援する会」00160-4-135871
この物語を読んで心が動いた方は、
今日、身近にいるお年寄りに連絡してみてください。
遠い歴史を思うことは、身近な一人に心を向けることから始まります。
WisHは、あなたの小さな一歩を応援しています。


